神戸YMCAは今年2006年5月8日、創立120周年を迎えます。節目となる今年、『神戸青年』ではその歴史を振り返りながら、それぞれの時代に神戸YMCAがなしてきた働きの核心にあるものをくみ上げ、現在と未来への道しるべをそこに見出したいと考え、「120周年を迎えて」と題してシリーズを展開しています。
第2回の今号では、資料研究が進む1980年頃まで神戸YMCAの「創立物語」として伝えられていた「再興期」を振り返ります。
風前の灯火となった神戸YMCA
1886年に一度創立された神戸YMCA(当初、神戸基督教徒青年会)は、1894年頃から活動が低調になり、いったん消滅したかのような状況におちいります。100年史『神戸とYMCA百年』はその原因を国粋主義の台頭と、青年会が当初の教会青年間の親睦組織的性格から抜け出せず、事業を遂行するのに不十分な状況にあったことだと述べています。複数の教会青年会の合同会的な性格は、リーダーシップを各教会に分散させ、それをまとめようとはかるあまり、教会の外へ向かおうとする機運をそいだと言えます。一時採用された「神戸市基督教青年会」という名称には、そうした傾向を一気に収拾しようとする意図があったとされますが、さしたる効力を発揮することなく終わりました。一方、国粋主義をあおり、キリスト教離れ、ひいては神戸YMCA沈滞の一要因となった日清・日露の二度の戦争が日本の経済的躍進の要因ともなったとき、好況の波に乗ったキリスト者実業家たちを中心に神戸YMCAの再興が果たされたというのは、歴史の綾と言うべきでしょうか。
「中興の祖」村松吉太郎
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村松吉太郎 |
キリスト者実業家であり神戸YMCA「中興の祖」とうたわれるのが、村松吉太郎です。
村松吉太郎は静岡出身、若き日に修行中の横浜で宣教師から洗礼を受け、1887年、21歳のときに貿易商になることを志して渡米、3年間の滞在中、米国の先進的経済のありさまを見聞すると共に、教会に通い、異国での礼拝出席を通じて自身の信仰を養ったとされています。
ニューヨークで生活をしていた吉太郎が訪れたリバーサイド教会の入り口で、彼に声をかけた紳士が米国YMCA主事、ロバート・マクバニーだったことから、運命が回転します。いや信仰的に「神のご計画」と述べるべきでしょうか。「ニューヨークで友達がいないならYMCAを訪ねてごらん」というマクバニーの勧めに応じてYMCAを訪ね、その青少年活動に感激した吉太郎は、1899年神戸でYMCAを再興する際のインスピレーションをこのとき大いに受けとっていたものと思われます。
後年、神戸YMCAの初代理事長として、また東京YMCAでも財務理事としてらつ腕をふるった村松吉太郎の原点は、このロバート・マクバニーとの出会いでした。長く神戸YMCA主事のモットーともなった「青年に暖かい握手を」という言葉は、不安な異郷の地で、村松吉太郎自身がYMCA主事から受けた暖かい握手の経験によると伝えられています。
海老名弾正の影響
1891年帰国、神戸に居をかまえ好景気を背景に、花むしろと茶の輸出貿易商として成功を収める村松吉太郎は、事業の一方、米国での経験をもとに沈滞する神戸YMCAを再興させる意欲を燃やします。その彼を格調高い説教で鼓舞し、生涯にわたる友人としても影響を与え続けたのが、当時神戸教会牧師となっていた海老名弾正(後の同志社総長)です。
熊本出身で同志社に学び「熊本バンド」と呼ばれたグループの一員として全国を行脚し、武士道とキリスト教を融合したかのような勇壮かつ苛烈な信仰と説教を通して、発展途上の当時の日本にあって意気盛んな青年たちへ多大な感化を与え続けた牧師・海老名弾正。一方、米国でキリスト教信仰と感性と能力をみがきYMCA再建へ並々ならぬ情熱をそそぐ青年実業家・村松吉太郎。二人の出会いは、神戸YMCA再興の物語になくてならぬもののひとつとして記憶されています。
再興YMCAの始動
1899年5月25日、村松吉太郎ほか、森田金蔵ら気鋭のキリスト者実業家を中心として神戸YMCAは再び発会のときを迎えます。その内容は、以下のようなものでした。
神戸基督教徒青年会再興せんとす 曽て同市に在りし基督教青年会は一時盛大なりしも数年来殆んど立消の姿となりしが去九日神戸女学院に開きたる市内諸教会青年共励会親睦会後市内各派共同の青年会創立の必要を感じ組織談起りたり
神戸基督教青年会 本会設立の事柄は曽て報道せしが去年発起人六七十名神戸教会に会合し規約を制定し左の諸氏を評議員に撰びつ、〜中略〜以上の評議員は更に評議員会を開きて役員の互撰を執行せしに会長には伊藤俊介、副会長には村松吉太郎、会計には宮本良太郎、書記には西川玉之助の四氏当撰せらる
再興された神戸YMCAは、キリスト教青年運動をめざす親睦団体という初期の性格に加え、時事問題や社会的活動にも積極的な市民団体的性格をも持ち合わせていました。そこには「社会派」と呼ばれた海老名弾正の影響、1891年の濃尾大地震の折りに展開した緊急救援活動の経験の影響も考えられます。
さらに、村松吉太郎が米国で見聞した青少年団体としての性格が与えられ、教会内組織としてでなく、その枠を超えて働こうとする意志が強く反映され、真にYMCAらしいYMCAへと変わっていく機運がみなぎっていました。この新しい息吹が、1911年の寄宿舎建築、1913年の第一期青年会館建設へとつながっていくのです。
戦争とYMCA
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海老名弾正(写真提供
日本基督教団 神戸教会) |
明治前半期のキリスト教会は、国家政策に生殺与奪の権を握られる不安を常に抱えていました。条件付きとはいえ、曲がりなりにも明治憲法(1889年公布)によって信仰の自由が保証されて初めてその存在が公に認められはしましたが、国家と矛盾する思想は許されていませんでした。この時期、日清・日露戦争遂行に積極的に協力する動きがキリスト教会内部でも神戸YMCAにおいても多く見られるのは、国内で排除される不安と、時代と共鳴することを通して教勢拡張をめざす情熱とがあいまった結果と考えられます。
このことは常に「時代(人々)に沿って」歩んできたYMCAが踏みこみやすい陥穽だったと言えますし、基本精神から具体的方向を見すえようとするとき、忘れてはいけない過去から現在、そして未来への問いかけがそこにあるように思えます。(文責=編集部) |