1・2月号では、それぞれの阪神・淡路大震災を、直後〜数日後、それ以降と順を追ってボランティアやボランティア・コーディネーターのご経験から当時の動機や気持ち、また混乱の中でできたこととできなかったことなど、振り返っていただいたことを掲載しました。その中で浮かび上がったのは次の3点です。@日常での人との関わりが、緊急時に人を動かす最大動機。A(混乱の中十分ではなかったが)被災地からの情報発信が大切。Bボランティア・コーディネーターの存在がボランティアを生かす鍵。
今号では、座談会の残り、約3分の1の模様をお伝えします。終盤にかけ、お話はいっそう深いものになりました。(敬称略)
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●太西裕二さん 特別養護老人ホーム オリンピア 生活相談員 |
●藤井昌子さん 色彩楽園代表 |
●水野雄二さん 神戸YMCA総主事 |
●山口徹さん 前神戸YMCA総主事 |
災害ボランティアの引き際
藤井昌子 《色彩楽園代表、震災当時、小学校等をまわり、子どものメンタルケアーを目的に出張アトリエ教室を行う》 今秋の豊岡でも、もう終わっているから結構と地元から言われたりしました。
山口徹 《前神戸YMCA総主事、震災時YMCAが行った救援活動、復興支援の総指揮をとる》 いつ引くか、それが大事だろうね。地域がある程度持ちなおしてきたら彼らが自分自身でどう自立へ向かい、どう復興してゆくのかがもっとも重要なことで。
藤井 お手伝いに行っているだけですから。私たちがメインではないですから。
太西裕二 《特別養護老人ホームオリンピア生活相談員、当時は神戸YMCA講師で震災直後ボランティア・コーディネーターとして活躍》 難しかったのは、散髪ボランティアが行われていたとき、地元の散髪屋さんがオープンした。ボランティアの方が無料やからとなると、結局は地元にお金が落ちず復興が遅れる。
水野雄二 《神戸YMCA総主事、震災当時は三宮本館で救援本部事務局を担当》 同じように自転車屋さんがオープンした隣でパンク修理をボランティアでして文句が出ましたね。
太西 本当に引き際は難しい。
山口 関学の田中先生のゼミなどでは「ボランティアは弁当を持って行かないで向こうの地元の店で買いなさい」と。地域作りはそういうことから始まる。
水野 今回新潟でも救援物資はあっという間に集まったらしい。ただ、道路が遮断されたりしているから、届かなかった。新潟までは大量に物は行っていたんだけど。だからお弁当も大量に腐って捨てたらしい。そうなると新潟のコンビニとかは商売あがったりやね。最初のライフライン、命をつなぐためのものはいると思うけれど、過剰なサービスはいらない。
ボランティアの現在と未来 〜広がりから深まりへ〜
藤井 正直にやれるようになってきたと思う。それぞれができることをするのが基本。やりたいけど、人目があってやれない。手伝いたいけど良い恰好していると見られるからやめるというのがあったと思うけど「やりたいからやるねん」と正直になるきっかけになった。 年続いてきていればいいなと思うし、続いていると思う。
水野 福井の水害ボランティアを思い立って専門学校の学生に声をかけたら5人の学生が手をあげた。その時に道々「何で手をあげたん?」と聞くと「自分探し」と言う。「どういうこと?」と聞くと「今までそんなことする自分ではなかった。でも今回行ってみようと思った。それをきっかけに自分は変わっていくような期待がある」と言ったんです。2日間作業をして帰ってきて「変わったか?」と聞くと「変わりました」という。そんな簡単に変わるのか、とも思うけど。(笑)
太西 ボランティアというものが身近になったと思う。僕も震災前にボランティアリーダーやっていますと言ったら、偉いわねえというようなことを言われ、気恥ずかしくなるようなことがあった。そうではなく広まってきている・・身近になったことが大きかった。
水野 例えば道を歩いていて落ちているゴミを何気なく拾ってゴミ箱に捨てる。これもボランティア。それくらいの身軽さがあって良い。自分がやることによって、だんだん普段から気になるようになる。
山口 YMCAでは「ごみが落ちたら拾う人」を育てるか、「ごみを捨てない人」を育てるか・・両方できないとあかん。杉並か世田谷かで、西宮の宿泊型のサニーボランティアハウスに月曜から金曜まで泊まってボランティアに来ていた高校生が東京に帰って「私たちは何回も神戸に行けない。でも自分たちが住んでいる町にも問題はないのか?独居老人、障がい者が孤立していないか?」と問い直すところからボランティアを始めている。それが意識の深まりや広がりだと思う。それがもっと広がればと願いますね。
水野 今言われているのは個人のレベル、組織やコミュニティーのレベルとあると思う。コミュニティーのレベルでどうだったかというと、確かにNPO法人があれだけ増えたり、いろんな面でのボランタリーな人の動きも震災のアフターケアーを含めて広がったと思う。 年前の震災は確かにその契機となった。YMCAの組織のレベルでは今、総主事として評価すると不充分だと思うので、そのことは大切なこととして繰り返しいろんなところから内実化させようとしている。個人のレベルでどう深めていくかというのは、YMCAの組織であろうとなかろうと深めていこうとする働きかけをしないといけない。そういう人は増えたかなとは思うけれども。
山口 ボランティアがあのとき広がったけれど、僕はこの震災で内実はもっと変わると期待していた。主体性とか自主性の姿勢で、人に言われなくても動くことは震災の時できていたと思う。YMCAの規模も大きくなりプログラムが多様化している中で、大学生のボランティアの質や広がり、内実はもっと変わるものだと期待していた。災害時にボランテイアはファッションみたいにたくさん来た。しかし、YMCAのボランティアはそれだけではなくて「人間の命とは何か」、「人間として生きることはどういうことか」など、体験を通して変わってゆくことがあると思う。YMCAでも平和の問題、人権の問題いろんなことをする中で、スタッフから言われなくても自分たちの問題として参画する。そのことを命としながらどう伝えてゆくか、そのことに対して一人人ひとりが考えなければ。だから自分は何のためにどう行動するか、という深まりというか、そのへんですね、今問われているのは。その時々でYMCAはよくやったと思うけれども、それがどう継続して今や未来に深められて生かされて行くのかどうか。
ボランティアの「いのち」
山口 PTSDという言葉は今や当たり前になっているけれど、サンフランシスコから日系人のトゥルー本間さんがここに来て「山口さんご苦労さんね。もうそろそろ消防局長、警察署長、山口さんを含めそういう責任者が疲れてくる頃よ。そういう人たちのケアーを考えなさい」と。災害後のPTSDやメンタル・ケアーを学ぶ目的で、その後アメリカに白石さん、倉石さん、井出さん、大江さんを送りました。台湾の地震の時も派遣して。そういう人たちがいて、YMCAを世界規模のボランティア団体と認識してくれた。大きかったね。」
司会者 メンタルなケアーには専門的な関わりと、誰もが心がけていくべき人としてのあり方と、双方あると思います。YMCAは専門家の指導を得ながらの後者であり、震災時にも、人に近づき、寄り添うということを専門家レベル、素人レベルのいずれにおいても、大事にしていたと思うのですが。
山口 世界YMCA同盟のジョン・ケーシー総主事(当時)が来た時、長田のおばあちゃんの家を訪問してね。おばあちゃんにとっては相手が誰か分からない。見知らぬ外国人が来て、英語も分からへんし。ところが、そのおばあちゃんがジョン・ケーシーに抱きついて泣いた。おばあちゃんには、心から寄り添ってくれる相手やと分かったんやね、言葉は通じなくても。そばに近づき寄り添う。そこからしか始まらないと思うんです。
藤井 避難所の出張アトリエ教室で、いつも絵を描くわけでもないのに教室のお姉さんの横に来て、ひっついているだけで帰る子もいた。それも同じようなことやったと思いますね。
司会者 神戸青年紙上にマンガが連載されています。その中で災害や戦争が起こったりした時の私たちのするべき価値は最初「ケアリング」(思いやり)と思ったのですが、その後編集部で話していると「レスポンシビリティ」(責任感)ではないかと。
水野 「レスポンシビリティ」とは「レスポンス」つまり応答性。例えばそれは「社会のいろいろな状況の中でそれをより良くしてゆく」という、YMCA的に言えば「神の問いかけに対しての応答」。YMCAというのはいつの時代にあっても神様との応答の中で仕事をしてきた。世の中に弱い人、悩んでいる人がいる。そのことにレスポンスする、プログラムを企画する。たまたま、震災の時が非日常だったというだけ。PHD協会の草地さん(故人)が言っていたけど「言われなくてもやるのがボランティア。言われてもやらないことも、自分が人間として選択してゆくこと」今から振り返ってみれば、もっとベターな行動がとれたのではと自ら問うこともある。神戸市民の多くはそう思ったと思う。とくに家族を失った人はそのように思うことが多い。
山口 震災時、YMCAは地域に対することはしたけど、うちうちの会員に対して手を差しのべるべきことをやったかと言われると分からない。しかし今、会員であろうとなかろうと関係なしに、「目の前の人が大切な人だった」と解釈している。YMCAというのは特定の誰かにではなく、いつの時代もあえぎ苦しむ人にいかに手をさしのべるか、いかにその人のそばに行ってあげられるかであって、それが会員であるなしは本質的な問題ではないと思いたい。障がい者や独居老人の問題も、震災前からあったことであり、それがたまたま浮き彫りにされただけであって、YMCAが地域にあって日常的に関わってきたことだった。
水野 日常の関わりが非日常に生き、非日常の関わりが日常へ返ってくる。その本質は、先ほどの言葉を借りるといかに近づき寄り添うか、ということ。これは現在、神戸YMCAが取り組んでいる「GOAL2011」でうたうところの「いのちのミッション」、その内実だと思います。「GOAL2011」を深めるプロセスにおいて、震災からの学びは、しんどいけれど継続していく必要性があると感じます。(了、文責 編集部)
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