司会者「それぞれお忙しい中、ありがとうございます。今日は震災10年をふり返る座談会ということでお集まりいただきました。」
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●太西裕二さん 特別養護老人ホーム オリンピア 生活相談員 |
●藤井昌子さん 色彩楽園代表 |
●水野雄二さん 神戸YMCA総主事 |
●山口徹さん 前神戸YMCA総主事 |
それぞれのあの日
司会者 「今日は震災10年、災害(非日常)から見るボランティアの過去・現在・未来としまして、あの震災が現在と未来の日常へ向けて何を問いかけているのかを皆さんで語り合いたいと思います。
まず、震災直後の混乱の時そこで何をしたか、何を考えたのか、そしてその後どういう事をやらなきゃいかんと動かれたか、それぞれ個人とYMCA全体をまたぎながら話していただけますか。」
藤井 「10年前、当時私は専門学校で講師をしていたのですが、西宮YMCAと三田YMCAの子どものアートのクラスも担当していました。垂水区に住んでいたものですから、家が全壊とか燃えるとか、そんなことにはならなくて済んだのですが、どうもすごいことになっているようだから家にいました。1日目は自分と家族のことだけ、生活をするためにどうしたらいいのかなと思っていました。」
太西 「私も実家は北区の北鈴蘭台だったので揺れはひどかったのですが、家の被害はほとんどなく棚の上の物が少し落ちた程度でした。最初の1〜2時間は電気が通じず状況が全くわからない。家にじっとしているのが精一杯のことだったのですが、意外に早く電気が通じて8時ぐらいからテレビが復旧し、見ると「なんかすごいことになってるで」と。長田の方がひどい被害を受けていると分かりました。これまで学生リーダーのボランティアで西神戸YMCAでずっとお世話になっていて、YMCA関係の方だけでなく近所の食堂のおじちゃんおばちゃんにも良くしていただいていたので、すごく気にはなりながら、それこそ車は出せないし、電車も通らないし動きがとれない、何人かの長田近辺にいる友人に電話をしてみるんですが電話も通じない。ひたすらテレビで街の様子を見ていたというのが、初日の状況でした。」
水野 「今回の新潟でも、住んでいる町によって運・不運があって、私も神戸の街に住んでいて震源地に一番近い舞子の場所に住んでいたけれどあまり大きな被害はなかった。今も 年前の事を思い出すと痛恨事というか、私は全体がわからなかったんですけど、まず朝一番にYMCAに電話したんです。「状況どう?」って。そしたら「YMCAは大丈夫よ」というのでそれに安心したんですね。「そう。ごめん。そしたらちょっと家のことさせてもらう」って。というのはわが家は1滴も水が出なかったんです。だから水を確保しようとして2日目まで過ごしました。」
山口 「私の家は摩耶ケーブルの近くで、家財がいろいろ上から飛んできたり、ベランダから芦屋の方面に火柱が上がっているのが見えたりしたけれども、あとは何が起こったのか分からず、ネクタイをしてYMCAに行くと、職員の1人が倒壊家屋の下敷きになっているというので助けに行きました。また近くで元理事の方が下敷きになっていると聞き、そちらへも向かいましたが、残念ながら亡くなっていた。すごい火柱が上がって誰かが消防署の人に「こらー消防車、おれんとこの会社と家が燃えとんの知っとんか。水は出えへんのんか。早く消さんかい」などと怒鳴っている傍を抜けて、長田の西神戸YMCAに行ったら体育館の壁が落ちとった。うわーブランチあかんわと思った。そのまま三宮会館に帰って救援本部を立ち上げた。その辺のホワイトボードを外して持ってきて置いて、そこが救援本部になった。でも最初は被害が全然分からへんから、まずしたことは、電話応対です。すぐ「国境なき医師団」から「ペットボトル6千本送ります」と電話があった。また同盟から電話があって「救援本部立ち上げたか?」と。「何考えとんねん。被災地はここやで」と思った。とにかくYMCAに対するいろんな期待にどう答えるかが最初やったですね。」
それぞれの数日後
藤井 「3日目にやっと大人の私がこれだけ怖いのだから、子どもはいったいどうなっているんだろうかと。それで何とか子どもたちのところにクレヨンを持って行きたいな、西宮のアトリエまでたどり着ければ画用紙もあるし何とか行けないかなと思ったのですが、交通が遮断され西宮がものすごく遠くなってて。実は震災前、色彩心理の勉強を始めようとしていました。そこの事務所が東京なんですが、子どものメンタルケアーも目的に子どものアトリエを開いていて、今年はあきらめようかと思ったんですが、ここはやっぱり応援してもらわないといけないと思い直して、東京事務所に電話したんです。すると幸いにも大阪にそういう人達がいるので、できたら是非手伝いたいと言ってくださって。それで代替バスで4時間ぐらいかけて西宮Yに行って、アトリエのロッカーから画用紙と色鉛筆を持ち出して、背負って西宮の平木中学校の避難所に行ったのが、2月5日でした。それから色彩心理を勉強している仲間が集まって、ボランティアの人数も活動場所も増え、避難所やちょっと広い公園など数カ所でしていました。とにかくきちんと毎週、この曜日のこの時間にこのお絵かきさんが来るね。いろんな人が来るんじゃなくて、絶対に同じ人が来るからと子どもたちに約束をして、子どもは来たり来なかったりするんですけど、活動していました。そして気がついたら1年たっていました。そんな感じです。」
太西 「4・5日目でしたか、とにかくじっとしていても仕方がないし、行ってみないと分からないと思ってまずは歩いて長田へ。西神戸YMCAでは関係者のボランティアだけで動き出していた。救援物資が到着したりそれを配ったりし始めているところでした。最初は何の考えもなしでしたが、ディレクターから「君はボランティア担当な」と言われて次の日からそこでの活動が始まった。長田の街は全然風景が変わっていました。家がなくなって向こうが見渡せてしまう、大半が火事で焼けてしまってまだ焦げ臭い匂いが残るといった中で、知り合いの方も被災して亡くなったりしている。、何かしら活動の助けになりたいというのがあってそこでとどまってやり出した。最初は家も何もかもすべて失くしている方がいっぱいいる中で活動が始まったこともあり、「とにかく足りないものを届けないと」ということが思いの中にあって、何が足りないのか、何が必要とされているのかをまず知らないといけない。実際にはそれぞれの生活の中で違っていて、何を届けたらいいのかというのが最初に当たった壁というか悩んだところでした。とにかく水と食料が一番でそれを配り始めるという活動に加わった。最初はYMCAの関係者ばかりだったけれど、日を追うごとに一般の人も来られたり、救援物資もYMCAとは全然関係ない団体から送っていただいたりしました。」
水野 「初めてYMCAに来たのは3日目です。来たとたん「国境なき医師団」のペットボトルが届いて。あとは安否確認に留学生を訪ねて避難所に行ったりとか。自分も被災者だし、状況はわからないし、本当に適切な行動がとれたのかなと今になって思います。毎年この時期になると自責の念にかられます。NGOの救援本部立ち上げで、私は事務局次長。受け入れ体制としてある種の組織を作って西日本のYMCAの援助を受ける中で東は西宮YMCA、西は長田の西神戸YMCA、組織がいち早く出来たのは非常に良かった。最初2週間はずっとそこで、あっちこっちの他の被災地を全然見てないんですよ。ずっと本部で救援物資の調達、電話をする係をしていました。それとボランティア受け入れ。救援物資についてはYMCAのネットワークで大概のものが手に入りました。今はっきり覚えているのは線香を欲しいと言われたこと。避難所が遺体安置所と一緒で匂いがするでしょ。だから京都Yに電話したら大量にやってきてね、線香ばかり。チャペル前の入り口にどんと積んであった。」
山口 「3日目に最初に神戸市役所へ行ったけれど、市役所はもうパニック状態で誰も話ができない。それで県に行った。そこも体制ができていない。そこで行政に頼っても仕方がないので自分たちでしようということになって、当時の日本基督教団議長の北里さんと、「国境なき医師団」とYMCAとでPHD協会の草地さん(故人)がNGOを立ち上げた(注1)。1月 日だった。その後はNGOの参画団体として行動するあり方と、日常活動の延長上のあり方とで、YMCAに出来ることはいっぱいあった。あの時、西神戸YMCAは日常性の延長として長田区役所との連携が普段からあり、西宮YMCAの館長は大阪YMCAから来てもらって1年目だったから、大阪Yのスタッフが応援に来たとき指示がしやすかったのがある。だからご覧のようにあれだけできた。」
ボランティアを動かすもの
水野 「ボランティアの受け入れについては、最初の頃いっぱい来るでしょ。「何でここにいらっしゃったのですか」と聞くと市役所にボランティアはYMCAに行けと言われたと。あるボランティアに聞くと「会社と喧嘩してきたんです。」というわけね。「私は神戸に行かないといけない」と思ったけれど会社の人は「おまえ仕事はどうするんや」と言われて止められたんだけど、会社をやめてもいいから喧嘩して来ましたというわけ。それもどうかなと思ったけど、気持ちは分からないでもない。そんなふうに心を動かされて来たというのが多かったですね。」
太西 「難しいところやと思うんです。たまたま私は、当時非常勤で神戸YMCAに雇っていただいてここで働いていたからこそ、すんなり救援活動に入れたと思うんです。違う仕事をしていたらどうかなと思うと、そこまでできたかというのは分からない。ボランティアというのはある程度自分の基盤ができないとできない部分もあると思いますし、気持ちはあっても実際行動に移せたかどうか・・」
司会者「皆さんが3日目ぐらいに動き始められた気持ちは、どこから来たのでしょう。」
藤井 「どこから来たのか分からない。この 年ずっと聞かれてるけれども分からない。ただ「あー子どもが危ない」と思った。最初に西宮Yのスタッフが電話してきてくれたのは「先生のアトリエのクラスの子どもは無事です」とわりと早かったです。それを聞くと私の意識は避難所の子どもたちに向きましたね。アトリエだけは早く再開した方が子どもたちにとっても良いので、その辺はなんとか頑張りましたけど。」
太西 「私の場合は長田近辺に4・5年もいたので、うどん屋は大丈夫かなとか、あそこの人はどうしているのかなというのがまず最初だった。だから何か手伝いをしなきゃというよりもその人たちはどうしているのかなという意識が一番ですね。行ってみないとわからない。そして行ってみてああ大変なんだというのがわかった。動き出したきっかけは「あの人は大丈夫かな」というごくごく個人的なものだった。」
山口 「それで良いのじゃないのかな。自分、家族、親しい友達が無事だったと聞き安心して、では他の人はどうかと思う気持ち。」
藤井「自分と家族が助かっていて、命があるから動けるということですよね。」
水野 「私もね、水が一滴も出ない状況だったから四方八方で水を確保した。どこにもちょっとしかないんですよ。明石に住んでいる職員から衣装ケースに1杯水をもらってきて。水って重いですよねー。水がこんなに重いということに気が付いた。家に持って帰って、これで何日かは大丈夫。これですぐYMCAに行った。だから、家の安心を確保しないと続けて何もできなかった。」
山口 「そのことがないと次の行動が不安定ですね。まず生命と安全。それから気持ち。また人それぞれレベルがありますが、状況が許すこと。」
藤井 「ある程度整わないと動けない。家にいる母とけんかしたのは「あんた、人のことばかり助けて家族のことも考えなさい。」と言われ、それはよく覚えてるんです。」
水野 「そうした方々のボランタリーな結集が有り難かったし、周りのYのサポートもとても有り難かった。神戸Yだけではおそらくこんなにはできなかっただろうと思います。」
情報の発信を
山口 「情報収集を、どれだけ早く適切にするかが大切だろうね。あの日礼拝の日だったから僕、ネクタイ締めて出てたもんねえ。」
藤井 「分からないですよね、最初は。テレビ映らないからね。横尾にいた知人から長田が大火事やぞと教えられたんです」
山口 「逆にどう情報を発信していくかということも、ものすごく大事だと思う。2月初旬、総主事会議が大阪であった。三田周りで行った大阪では、みんなネクタイをしていて赤提灯がついとる。何や、と気分悪くなりそうで、そういうのを帰って家族に言うと「三陸はるか沖地震あったでしょ。そのときあんた何したん?」と言われて。実際経験してみないと分からないものだと。大事なことは現場から、神戸から何を発信するかということやね。よその地域の人から「ラーメン500食持って行きますから水とプロパン用意して下さい。」と言ってこられて、怒ったこともある。そういう理解で来られるということは、情報発信が案外できていなかったと思う。」
水野
「それは、私達のボランティア受付でもありましたよ。食べるものと寝るところを用意してくることは今では当たり前ですが、 年前は当たり前ではなかった。あの頃はボランティアの世話も現地に期待するみたいなことがありました。「泊まるところを用意してもらえますか」とか。そういうのはあの 年前の震災でボランティアの意識が変わった。あの時の神戸からの発信が今に生きているものはある。」
藤井 「ものを集めるのは大変でしたけど、西宮YMCAがキーステーションみたいになっていたので、いろんなところから物資の調達はできた。やはり理解の差が大きくそんなに被害を受けてない人は分からないんですよ。「もう画用紙がありません。」と平気で言ったり。子どものメンタルケアーという目に見えないものを避難所でさせてもらうのも、当初はメンタルなケアーが必要という情報が避難所に届いていないので、難しかった。」
コーディネーターの存在が、ボランティア受け入れの基盤
山口 「一般のボランティアに比べてYMCAスタッフがやはりプロだと思わされたのは、オリエンテーションがしっかりしていること。何かものを運ぶだけでなく、今はこういう状況です、ですからこのためにこれをやるのです、ということをきっちり話して、心をいかに運ぶかを伝えている。あれは大きかったですね。行って、おばあちゃんにしばらく話相手をしながら時間をかけて心を伝える。それが出来たというのは、日常のキャンプで、ただ面白おかしくやっているだけではなくて、1人ひとりのプログラムに対して何のためにこれをやるのか、ということを徹底して確認している延長上にある。日常のYMCA活動の中に、非常時のモデルがあった。(注2)スキーキャンプのゼッケンを使ったのも、日常の援用の一種だけど、いつからだったかな?あれは責任の所在をはっきりさせるのに大きかったですね。」
水野 「ニーズも日によってどんどん変わっていきました。最初は水と食料だけだったけれど。」
藤井 「ボランティアをやっている人はあんまり被災してないというイメージはあったかも。学校なんか一番大変でね、やはりよその人を入れたくないというか、とにかく早く外に出て行ってくれと思っている。」
水野 「今回の新潟の地域でもね、ボランティアに対する受け入れが街によって全然違いますね。一切ボランティアは締め出すというか来てほしくないというところもあるし、言うことを聞くボランティアは来て欲しいけど、うるさいボランティア・コーディネーターはいらないとかね。ボランティア受け入れの組織がきちっとできている町とそうでない町と両極端のようです。」(座談会は次号へ続きます)
(注1)震災を契機に新たなNGOやNPO活動が形成されていく過程で、神戸YMCAがその孵卵器的な役割を一定以上果たしたことは間違いない。救援・支援の最前線での活動と同時に、専門的NGOの立ち上げに参画し、前線の活動をそこに譲って自らは日常の教育活動へ戻りつつ、ネットワーキング的な関わりを残していくというあり方は、きわめてYMCA的である。
(注2)プロのディレクターやコーディネーターと、アマチュアのボランティアとが協働するというボランティア活動におけるモデル。日常のノウハウを非常時に援用する、関東大震災時の救援活動以来の伝統が生きたと言える。
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